「私」と習慣、そして幸福ー伊藤計劃『ハーモニー』からー

 私は基本的に規則正しい生活をしている。概ね朝5時半くらいから6時半くらいに目覚め、夜9時半から10時半くらいの間に床に就く。もちろんこのサイクルから外れる日もあるが、それでもこのサイクルになるべく近づけるよう努力する。

 私がこうした生活習慣に注意を払うのは、人間を作るのは意志ではなく行動であると考えているからだ。そして行動を作るのは他ならぬ習慣であると信じているからだ。Exellence is not an ability, but it's a habit. BBCのニュースか何かで、ある黒人女性の起業家が自身の成功の理由について訊かれた時にそんなことを言っていた。当たり前にできることこそが本当の意味で自分の役に立つのだろう。そういえば三木清も『人生論ノート』の中で似たようなことを言っていたような気がする。実際、人間の行動に影響を与える要因の大部分が無意識によって占められているのだから、自分の行動を変えたければ自分の無意識を変えるよう努力すべきだろう。意志の力でどうにかなる問題なんてそんなに多くはない。それくらい意志っていうものはちっぽけなー完全に無力ではないにせよーものであると私は思う。

 そのような理由に基づき規則正しく日々を過ごしていると、自分の心が希釈されていくような感覚に見舞われる。いよいよ「私(自己)」なんてものが感じられなくなっていくような、そんな感覚である。それは心地いいものだ。なぜならいらない感情を感じずに済むからだ。感情は迷いを生む。迷いは習慣を妨げる。それは私にとって不利益だ。いや「私」なんて感覚はとうの昔に抽象化されてしまっているのだが。不利益を感じる「私」とは、今ここに現前している(はずの)「私」ではなく、現在の行動の堆積に伴う習慣によって構成されるあるべき未来の「私」なのである。ザインとしての私ではなくゾルレンとしての私と言ってもいい。前者の私は感得されず、後者の私は現前しない。両者とも不在であるという点では共通している。あるのはただ行動だけである。私にとっては、少なくともそうである。

 日々の生活の中で孤独を感じる人は多い。その感情を埋め合わせるために人と付き合う人も多くいるだろう。しかし私は決して孤独ではない。私にはそもそも、孤独を感じる「私」がない。ではこうして語っている私は誰か。それは誰でもない。この文章から勝手にその存在を推測されるただのキャラクターのようなものだ。どんな物語にも狂言回しは必要だが、それが実在しなければならない訳ではない。今語っている私は、つまり実在しない狂言回しというわけだ。言い方を変えれば、この私は文章にならなければ想像さえされないような非本質的な存在(そんなものは実在とは言えまい)というわけだ。

 仮に、全ての人がこうした気分になったらどうなるのだろう。それはそれで幸せな世の中と言えるのだろうか。違うな。そこにはもう、幸せを感じる「私」なんてないんだから。