仏教と神経科学ー『哲学のメタモルフォーゼ』からー

最近(というか、ここ2ヶ月以上もの間)、『哲学のメタモルフォーゼ』(河本英夫・稲垣諭 編著、晃洋書房、2018)という哲学書をじっくり紐解いている。今年発売されたばかりなので、ある程度の規模の書店ならばほぼ確実に置いてあると思う。非常に興味深い著作なので、是非手にとってペラペラ立ち読んでみて欲しい。内容がわからずとも、その色彩豊かな文体には思わず目を奪われてしまうだろう。

ここではそのⅢ章「経験の変貌」、7節「意識の行方」の内容を取り上げて所見を述べさせていただく。

意識とは、自動的に作動する無意識が何らかの原因のために止まったとき、その動作を調整する因子として表出する、言わば二次的存在である。要するにそれは自動的な「身体」の運動を補完するための器官に過ぎないのである。(ここでの「器官」という言い方は夭折の天才SF作家、故伊藤計劃氏に倣った)にも関わらず、日常生活の中でそれを実感することはほとんどない。むしろ確固たるこの「私」(=意識)が自分の行動を完璧に制御しているとさえ感じている。これは完全に転倒した論理である。尤も、「私」の意識が「他者」を育み、それが社会を成立させている以上、こうした実感は必要不可欠なものであると認めねばならないのかもしれないが。

さて、以前の記事でも触れたように、仏教思想においては、概ねこうした「私」の存在は仮象であると看破されている。これは、現代神経科学の観点からすれば全く正当な主張であろう。釈尊が2000年前にこうしたことに気づいていたとは俄には信じがたい話である。そしてこうした「私」という仮象を産む存在、つまり一般的な意味での「意識」を仏教では「末那識(まなしき)」と言い、その「末那識」を育む場所、つまりユングが言うところの「集団的無意識」のことを仏教では「阿頼耶識(あらやしき)」と言うのであった。(注:別にいわゆる「無意識」を「阿頼耶識」と言っても悪くはないが、あくまでその「無意識」はこの「私」にとっては外在であり、世界全体の流れそのものである、ということを強調するためにここではユングの言葉を借りた)

となると、上で述べたような意識の働きを考える上で仏教は非常に有益なのではないかと思えてくる。兎角仏教は神秘思想であると揶揄されがちであるが、そんなことはない。現代の脳科学がようやく最近発見したことを、約2000年前から見抜いていたのだから、そこらの科学よりはよほどリアリスティックであると言うべきである。騙されたと思って、まずは鈴木大拙の著作から読んでみてはいかがだろうか。