研究序説 「私」とメディアー『声の文化と文字の文化』(W・J・オング)からー

 この「私」とは誰か、という問いについては古くから多くの思想家たちが議論し合ってきた。例えば近代においては-もちろん様々な意見があったはずだが-超越論的自我が経験的自我を統御しているという考えが主流だった。この言説を、誤解を恐れず平易な表現にすると、理性が身体を動かしている、ということになろうか。

 19世紀後半から20世紀前半にかけて、精神分析学や哲学などの諸分野において、こうした考えは根本的な刷新を迫られた。フロイト精神分析学を踏まえれば、その更新を意識から無意識への転回に象徴できるだろうし、デリダの鍵概念の1つである「差延」に基づけば、自己と他者との差異が自己同一性に対して先行するということにその更新の発露を見ることができるだろう。何れにせよ、19世紀の大部分の市民の間で素朴に信じられていた「私」に対する考え方は、もはや通用しないものになってしまっている。

 彼らは、少なくとも上記のような革新的な思想に遭遇するまでは、自らを統制する超越論的自我に対して、多かれ少なかれ自覚的であった。しかしそれは恐らく、人間が先天的に持っている感覚ではない。というのも、近代を近代たらしめた文字の文化、そしてそれに続く印刷の文化を持たないような文化圏に住む人々たちにとっては、そもそも「私」という感覚が、自分は他の誰でもない「私」であるという感覚がほとんどないか、あっても非常に曖昧な形でしかないことが多いと考えられるからである。

 「私」という感覚の欠如が何を意味するかと言えば、それはつまり彼らはいわゆる「個人」ではないということである。彼らは自分が1人の人間であるという自覚をあまり持っていない。近代に生きる人々が、自分が「個人」であることを主張できるのは、その証明が自分1人でも可能であると信じられるからである。自分の考えを1人でテクストに書き残すことができる人々は、その作者としての自分の存在を自覚し、かつそれを他人に伝えることができるのである。それとは対照的に、未だ文字の文化を持たない人々は、自分の存在を他人とのコミュニケーションの介在無しには示すことができない。もっと言えば、周囲の環境から独立した自分という単位を考えることをしない。

 文字以降の文化に支配されている我々には困難なことだとはわかっているが、文字がこの世に存在せず、ただ音声としての言葉だけが知的活動を作り出しているような社会を想像してみてほしい。そこで生活する人たちは、決して保存のきかない酷く曖昧なメディアのみに頼って社会を運営していかねばならない。したがって、そこで使用される言葉は何度でも使えるもので、しかも発話しやすい形になっていなければならない。言葉がそこではすぐに消え入ってしまう以上、それは記憶されやすくなくてはならないからである。

 さて、そんな環境の中である人が何かを言うとき、彼(彼女)はどのようにして言葉を選ぶだろうか。私たちは、自分が使う言葉を選ぶとき、必ずしも現実の状況で誰かが言っていいたことを参照する必要はない。私たちは、新聞やテレビ、インターネットでの言葉の使われ方を参考にして言葉を選ぶことができるし、近しい間柄の人としか話をする機会がないという人でない限り、社会的な場面ではむしろ文字の文化に依拠した言葉の使い方に準じることの方が多いかもしれない。しかし、文字のない文化に生きる人たちは、自分が使う言葉を、必ず現実の文脈で誰かが言っていたことを参照して決定しなければならない。言葉の適用の正しさを判定する上で、彼らはそれ以外の手段を持ち得ないからである。

 このような点で、彼らの使う言葉は非常に環境依存的であると言える。そしてそれは、自分という存在を環境から切り離して考えることができないということを示唆している。自分自身の存在を証明するには、何らかの然るべき手段、つまりここではメディアが必要になるが、彼らの持つメディアではその目的を果たすことができない。閉鎖系としての自分の存在を証明しようとしても、それを証明する手段が、自身の環境依存性を暴露してしまうからである。

 もちろん私は、実際に彼らが「私」という感覚に鈍かったかどうかを証明するには、これだけではあまりにも議論が不十分過ぎるということを重々承知している。これは哲学書の序文というよりはむしろ、ただの子供の落書きと言ってやるべきであろう。そのことを自覚した上で、さらにもう少し荒唐無稽なことを述べさせていただきたい。

 万一私の考え通り、文字の文化を持たない人が「私」という感覚を不明瞭な形でしか持っていなかったとしよう。そしてフロイトハイデガー、そしてデリダなどが台頭してくるまで<メタ-オブジェクト>という素朴な「私」観が信じられていたということに、ちょうどその時代に起こった印刷文化からエレクトロニクス文化への移行という出来事が何らかの形で関与していたとしてみよう。そうすると、メディアのパラダイムシフトと、人々の「私」観の変容とが曖昧な形ながらも並行関係にあるということにならないだろうか。だとすれば、一体何がこの並行性を作り出しているのだろうか。「私」が私自身によって自覚されるとき、そこには必ず何らかの形で言葉が関与する。その関与の形が変化すれば、もしかすると人々に自覚される「私」の構造にも変化が訪れるのではないだろうか。

 ここまで大風呂敷を広げると、多くの人は呆れてものも言えなくなっているだろう。その中でもし私のここまでの話を真剣に聞いてくれている人がいるならば、おそらく「仮にそうだとして、だからどうしたと言うのだ」と思うだろう。しかし私は、この研究は意外にも今の現代社会と、その中の市民像を捉える上で重要になると生意気にも、しかしある程度論理的に考えている。

 オングが『声の文化と文字の文化』を執筆した当初、エレクトロニクスメディアとは主にテレビとラジオ、それに電話や電信を指す言葉だったはずである。しかし今世紀に入って急速に勢力を拡大しつつあるインターネットは、それまで存在したメディア全てを包摂せんがごとく我々の社会を支配しつつある。メディアと「私」との関係を明確に描くことができれば、この時代における「私」の構造についても、その輪郭を示すことができるだろう。「私」が私自身とどう向き合うかは、どんな立場にある人にとっても人生の第一問題になるであろう。特に、情報処理の加速化と拡大化によって世界状況の変化がかつてない規模で複雑化しつつあるこの現代においては、その問題の難易度は高くなるばかりである。そんな中で、私の研究によって示されるかもしれない現代における「私」の輪郭は、彼らがその問題を解く上で1つの道標となる可能性を持つことになろう。

 もちろんそんなことに興味のない人だって数多くいる。しかし、誰か1人の人生が、この研究成果によって少しばかり変化するということがあるのなら、存外こんな妄想もしてみる甲斐があるというものである。これまでの人生の中で社会にあまり貢献できていない私だが、できることならそんな研究で誰かを喜ばせられたら良いと思っている。