仏教、知能、差異、他者、身体ー「人工知能のための哲学塾atゲンロンカフェ」からー

 昨日(2月8日(金))、ゲンロンカフェ主催のイベント「人工知能のための哲学塾atゲンロンカフェ」に行ってきた。今回はそれについてつらつらと所感を述べる。

 三宅さんは、今の人工知能は極めて機能主義的であり、存在論的な人工知能のあり方ということはこれまでほとんど注目されてこなかったと仰っていた。要は、世界と自分は無意識の根元においては同一のものであるということが人工知能研究においては無視されてきたのである。彼が、東洋思想(仏教など)が今人工知能研究に必要になっていると語るのはこのためである。仏教ではこの無意識の根元、すなわち知能の根元にある真理を阿頼耶識と呼ぶ。その実体は空である。「色即是空 空即是色」というわけだ。人工知能が機能として何ができるかということだけでなく、その根元における世界と自己との一致点を見ないことには、いずれその技術開発に限界が来ることは容易に予想されよう。

 さてここで東さんが後半の対談で再三にわたって仰っていた「共通の身体」について触れておこうと思う。

 自己は「語る」ことによって、「語る」自己と「自己が語るのを聞く」自己との差異を露出させる。後者の自己にとって、前者の自己はもはや外部化されているのである。いわばそれは一種の「他者」なのである。その差を統合しようとして再び差異を露わにする。その繰り返しの中で私たちは自己同一性という感覚を得る。もちろんそれが錯覚にすぎないことは明らかであるのだが。

 つまり自分自身とそうした「他者」(外部化された自己の痕跡を含む)との差が、私たち自身の自己が同定される必要条件なのである。この「他者」が他人と共有されるとき、各々がそれとの一致を試みることによってそこに社会性が生まれる。この共有される「他者」が明確な輪郭をもって現れることで、そこに「共通の身体」が発現するのではなかろうか。

 TwitterFacebookといったSNS空間では、通常のコミュニケーションにおいて時間とともに自然消失するはずの「他者」(「共通の身体」)が半永久的にアーカイブされてしまう。それは本来ありえないほどの力でもって私たちの自己のあり方に影響を与える。おそらくはそれに関わる人の多さと、その膨大な時間的堆積によって。それはユーザーから見れば、世界そのものにも匹敵するようなものと化している。その中で活動するとき、ユーザーはまさにその「世界」と自己との一致を見る。

 だが、ここでいう「世界と自己との一致」と、徳の高い僧が至る「妙」の境地とは明らかに異なると言わねばなるまい。「妙」の境地において自己と一致する所の「世界」は、文字通り無限大の世界(宇宙)そのものである。それは確かに普遍であるだろう。ところがSNSでの「世界」は明らかに普遍ではない。それは一種の島宇宙と言うべきである。ネット空間そのものは物理的に普遍に近似するものであっても、ユーザーの前に現前するそれは極めて特殊的である。それは自分の友達や趣味に関連した情報しかその人に提供しない。そのような「世界」と自己との一致に陶酔する人は、自己の正当性を「世界」の普遍性に代弁させようとしているにすぎない。もちろんそれは詭弁である。

 しかし情報空間に保存されるデータが膨大になればなるほど、こうした感覚が錯覚にすぎないことが気づかれにくくなる。これは非常に危険なことであろう。SNSにおけるカリスマが、実質的に世界を牛耳ることが容易にできてしまうのだから。東さんが、政治的な要請によって、SNSの過去が随時抹消されるようになると仰っていたのはこの辺りのことが関係しているのではないかと思われた。

 とりとめのない話になってしまった。まだわかっていないことだらけだし、この文章もきっと矛盾で彩られているに違いない。それでも1つだけ正しいと思えることがある。それはこのイベントが私にとって有意義であったということだ。