死、二律背反、真実、対話

 祖母が亡くなったのはもう2ヶ月以上前の話になる。私はその死に目に会えなかったが、私が急遽帰省して目にした、その死から約半日後の彼女の姿は、私の記憶から永遠に離れることはないだろう。

 「軽やかであり、しかしこれ以上ないほどに厳かだった」という趣旨の感想を、彼女の顔を最初に見たとき私は抱いたと記憶している。言葉にしてみれば何とも凡庸な感想だが、しかしその感覚は本来言語ではいかようにも形容しがたいものであった。というのも、彼女が現前させていたのは、人間の不完全な言葉には本質的に還元できないような、有り体に言えばこの世の「真実」そのものだったからである。

 なぜそのことを理解したのか、そのプロセスについて私は語ることができない。数学の問題を解いているときでも、あるいはポーカーゲームをしているときでもそうだが、日常生活においては、大抵の場合感覚的には結果が先に理解され、それに符合するような原因が事後的に理解されるものである。理性的な人間ほど、原因の積み重ねが結果を導くと考えたがるものであるが、実際人間の理性は真実である結果を導くにはいささか動作が遅すぎるのかもしれない。少なくとも、結果を知覚するという点において理性は感覚に圧倒的に劣ることが多い。

 さて、そのように把握された結果を前にして私が見たのは、前述したように軽やかさと厳かさの二律背反である。キリスト教における十字架は、神が人間に与える恩恵と、神が人間に課す試練とを意味しているそうである。それこそが神の象徴であり、またそれが真実の本性であるとするならば、私の祖母がその永遠の沈黙によって私たちに語ったものは、正に真実以外の何物でもなかったろう。

 私は、彼女のその真実と向き合ったとき、大いに畏怖すると同時に安堵していた。私の祖母は、やはり今なお尊敬に値する人物である、と。なぜなら彼女が体現していたのはまさしく真実であり、かつそれは普遍的な性格を持つものであったからである。私たちはこれからも、彼女とともに語らい、笑い、泣くことができるのだと確信したからである。

 彼女の葬式の最中、私は彼女の体現する普遍的な真実と常に向かい合っていた。正に襟を正される思いだった。真実と向き合う者は、自らもまた真実であることが求められる。彼女は静かに笑いながら私にそう告げた。私はその言葉の重みを肌で感じながら、彼女の目をまっすぐ見据えて頷いてみせた。式が終わった後も、彼女の言葉は私の中で何度も反芻され、その都度私は自らに問うた。今私は真実であることができているか、と。

 真実であるということは即ち自然であるということであり、当たり前であるということであり、そしてこれ以上なく正しいということである。社会で生きるためにある意味で不自然さ、不完全さを要求されることが多く、しかもそのことを無批判に受け入れてしまう傾向にある私たちが「真実である」ことはそう簡単なことではない。そのためには確固たる意思と、それを無意識化するための習慣が必要になる。そこで私は、今一度自分の将来のために必要な能力を整理し、それを得るためにすべきことを定め、かつその行為を習慣化することにした。それが、彼女と真に語り合い、真実と向き合うために求められると考えたからである。

 それから2ヶ月以上が経ち、習慣も少しずつ形になってきているように感じる。事実私は最近頻繁に彼女の影、即ち真実の光に遭遇している。それはやはり言葉にできず、ただ感じられるばかりである。彼女は今真実そのものであり、それは私が目指すべき究極の地点である。生きながらにしてそこに至るのは難しいのかもしれないが、せめてその傍で彼女の語りに耳を傾け、とりとめのない話をすることができればいいと思っている。

研究序説 「私」とメディアー『声の文化と文字の文化』(W・J・オング)からー

 この「私」とは誰か、という問いについては古くから多くの思想家たちが議論し合ってきた。例えば近代においては-もちろん様々な意見があったはずだが-超越論的自我が経験的自我を統御しているという考えが主流だった。この言説を、誤解を恐れず平易な表現にすると、理性が身体を動かしている、ということになろうか。

 19世紀後半から20世紀前半にかけて、精神分析学や哲学などの諸分野において、こうした考えは根本的な刷新を迫られた。フロイト精神分析学を踏まえれば、その更新を意識から無意識への転回に象徴できるだろうし、デリダの鍵概念の1つである「差延」に基づけば、自己と他者との差異が自己同一性に対して先行するということにその更新の発露を見ることができるだろう。何れにせよ、19世紀の大部分の市民の間で素朴に信じられていた「私」に対する考え方は、もはや通用しないものになってしまっている。

 彼らは、少なくとも上記のような革新的な思想に遭遇するまでは、自らを統制する超越論的自我に対して、多かれ少なかれ自覚的であった。しかしそれは恐らく、人間が先天的に持っている感覚ではない。というのも、近代を近代たらしめた文字の文化、そしてそれに続く印刷の文化を持たないような文化圏に住む人々たちにとっては、そもそも「私」という感覚が、自分は他の誰でもない「私」であるという感覚がほとんどないか、あっても非常に曖昧な形でしかないことが多いと考えられるからである。

 「私」という感覚の欠如が何を意味するかと言えば、それはつまり彼らはいわゆる「個人」ではないということである。彼らは自分が1人の人間であるという自覚をあまり持っていない。近代に生きる人々が、自分が「個人」であることを主張できるのは、その証明が自分1人でも可能であると信じられるからである。自分の考えを1人でテクストに書き残すことができる人々は、その作者としての自分の存在を自覚し、かつそれを他人に伝えることができるのである。それとは対照的に、未だ文字の文化を持たない人々は、自分の存在を他人とのコミュニケーションの介在無しには示すことができない。もっと言えば、周囲の環境から独立した自分という単位を考えることをしない。

 文字以降の文化に支配されている我々には困難なことだとはわかっているが、文字がこの世に存在せず、ただ音声としての言葉だけが知的活動を作り出しているような社会を想像してみてほしい。そこで生活する人たちは、決して保存のきかない酷く曖昧なメディアのみに頼って社会を運営していかねばならない。したがって、そこで使用される言葉は何度でも使えるもので、しかも発話しやすい形になっていなければならない。言葉がそこではすぐに消え入ってしまう以上、それは記憶されやすくなくてはならないからである。

 さて、そんな環境の中である人が何かを言うとき、彼(彼女)はどのようにして言葉を選ぶだろうか。私たちは、自分が使う言葉を選ぶとき、必ずしも現実の状況で誰かが言っていいたことを参照する必要はない。私たちは、新聞やテレビ、インターネットでの言葉の使われ方を参考にして言葉を選ぶことができるし、近しい間柄の人としか話をする機会がないという人でない限り、社会的な場面ではむしろ文字の文化に依拠した言葉の使い方に準じることの方が多いかもしれない。しかし、文字のない文化に生きる人たちは、自分が使う言葉を、必ず現実の文脈で誰かが言っていたことを参照して決定しなければならない。言葉の適用の正しさを判定する上で、彼らはそれ以外の手段を持ち得ないからである。

 このような点で、彼らの使う言葉は非常に環境依存的であると言える。そしてそれは、自分という存在を環境から切り離して考えることができないということを示唆している。自分自身の存在を証明するには、何らかの然るべき手段、つまりここではメディアが必要になるが、彼らの持つメディアではその目的を果たすことができない。閉鎖系としての自分の存在を証明しようとしても、それを証明する手段が、自身の環境依存性を暴露してしまうからである。

 もちろん私は、実際に彼らが「私」という感覚に鈍かったかどうかを証明するには、これだけではあまりにも議論が不十分過ぎるということを重々承知している。これは哲学書の序文というよりはむしろ、ただの子供の落書きと言ってやるべきであろう。そのことを自覚した上で、さらにもう少し荒唐無稽なことを述べさせていただきたい。

 万一私の考え通り、文字の文化を持たない人が「私」という感覚を不明瞭な形でしか持っていなかったとしよう。そしてフロイトハイデガー、そしてデリダなどが台頭してくるまで<メタ-オブジェクト>という素朴な「私」観が信じられていたということに、ちょうどその時代に起こった印刷文化からエレクトロニクス文化への移行という出来事が何らかの形で関与していたとしてみよう。そうすると、メディアのパラダイムシフトと、人々の「私」観の変容とが曖昧な形ながらも並行関係にあるということにならないだろうか。だとすれば、一体何がこの並行性を作り出しているのだろうか。「私」が私自身によって自覚されるとき、そこには必ず何らかの形で言葉が関与する。その関与の形が変化すれば、もしかすると人々に自覚される「私」の構造にも変化が訪れるのではないだろうか。

 ここまで大風呂敷を広げると、多くの人は呆れてものも言えなくなっているだろう。その中でもし私のここまでの話を真剣に聞いてくれている人がいるならば、おそらく「仮にそうだとして、だからどうしたと言うのだ」と思うだろう。しかし私は、この研究は意外にも今の現代社会と、その中の市民像を捉える上で重要になると生意気にも、しかしある程度論理的に考えている。

 オングが『声の文化と文字の文化』を執筆した当初、エレクトロニクスメディアとは主にテレビとラジオ、それに電話や電信を指す言葉だったはずである。しかし今世紀に入って急速に勢力を拡大しつつあるインターネットは、それまで存在したメディア全てを包摂せんがごとく我々の社会を支配しつつある。メディアと「私」との関係を明確に描くことができれば、この時代における「私」の構造についても、その輪郭を示すことができるだろう。「私」が私自身とどう向き合うかは、どんな立場にある人にとっても人生の第一問題になるであろう。特に、情報処理の加速化と拡大化によって世界状況の変化がかつてない規模で複雑化しつつあるこの現代においては、その問題の難易度は高くなるばかりである。そんな中で、私の研究によって示されるかもしれない現代における「私」の輪郭は、彼らがその問題を解く上で1つの道標となる可能性を持つことになろう。

 もちろんそんなことに興味のない人だって数多くいる。しかし、誰か1人の人生が、この研究成果によって少しばかり変化するということがあるのなら、存外こんな妄想もしてみる甲斐があるというものである。これまでの人生の中で社会にあまり貢献できていない私だが、できることならそんな研究で誰かを喜ばせられたら良いと思っている。

「私」と習慣、そして幸福ー伊藤計劃『ハーモニー』からー

 私は基本的に規則正しい生活をしている。概ね朝5時半くらいから6時半くらいに目覚め、夜9時半から10時半くらいの間に床に就く。もちろんこのサイクルから外れる日もあるが、それでもこのサイクルになるべく近づけるよう努力する。

 私がこうした生活習慣に注意を払うのは、人間を作るのは意志ではなく行動であると考えているからだ。そして行動を作るのは他ならぬ習慣であると信じているからだ。Exellence is not an ability, but it's a habit. BBCのニュースか何かで、ある黒人女性の起業家が自身の成功の理由について訊かれた時にそんなことを言っていた。当たり前にできることこそが本当の意味で自分の役に立つのだろう。そういえば三木清も『人生論ノート』の中で似たようなことを言っていたような気がする。実際、人間の行動に影響を与える要因の大部分が無意識によって占められているのだから、自分の行動を変えたければ自分の無意識を変えるよう努力すべきだろう。意志の力でどうにかなる問題なんてそんなに多くはない。それくらい意志っていうものはちっぽけなー完全に無力ではないにせよーものであると私は思う。

 そのような理由に基づき規則正しく日々を過ごしていると、自分の心が希釈されていくような感覚に見舞われる。いよいよ「私(自己)」なんてものが感じられなくなっていくような、そんな感覚である。それは心地いいものだ。なぜならいらない感情を感じずに済むからだ。感情は迷いを生む。迷いは習慣を妨げる。それは私にとって不利益だ。いや「私」なんて感覚はとうの昔に抽象化されてしまっているのだが。不利益を感じる「私」とは、今ここに現前している(はずの)「私」ではなく、現在の行動の堆積に伴う習慣によって構成されるあるべき未来の「私」なのである。ザインとしての私ではなくゾルレンとしての私と言ってもいい。前者の私は感得されず、後者の私は現前しない。両者とも不在であるという点では共通している。あるのはただ行動だけである。私にとっては、少なくともそうである。

 日々の生活の中で孤独を感じる人は多い。その感情を埋め合わせるために人と付き合う人も多くいるだろう。しかし私は決して孤独ではない。私にはそもそも、孤独を感じる「私」がない。ではこうして語っている私は誰か。それは誰でもない。この文章から勝手にその存在を推測されるただのキャラクターのようなものだ。どんな物語にも狂言回しは必要だが、それが実在しなければならない訳ではない。今語っている私は、つまり実在しない狂言回しというわけだ。言い方を変えれば、この私は文章にならなければ想像さえされないような非本質的な存在(そんなものは実在とは言えまい)というわけだ。

 仮に、全ての人がこうした気分になったらどうなるのだろう。それはそれで幸せな世の中と言えるのだろうか。違うな。そこにはもう、幸せを感じる「私」なんてないんだから。

語彙力の増強ーTOEFL受験からー

 先日俺は人生で初めてTOEFL iBTを受験した。今回はそれについての話である。

 受験する前、俺はこのテストの得点源はリーディングパートだと思っていた。他のパートに比べて時間的に余裕があり、かつ完全マークシート形式なので点数を稼ぎやすいと考えていたからだ。

 ところが実際のところ、それは余りにも甘すぎる考えだった。俺の語彙力は、TOEFLのあのアカデミックなリーディングパッセージを理解するには脆弱すぎた。あらゆる語学の根幹をなす部分の能力が俺には致命的に欠けていることを俺は痛感した。

 もちろん俺はただ反省してこの話を終わりにするつもりはない。然るべき対策をとり、次回の受験に備える所存である。しかしその次回の受験までに、俺はある程度まとまった時間を必要とするだろう。語彙力は一朝一夕には伸びないものだからである。それは日々の習慣がものを言う。習慣を変えるということはその人間を変えるということにも匹敵するほど重大な行為だ。それには時間がかかることは言うまでもあるまい。

 語彙力の増強というのは、普通なら成果が実感できるまでに2、3ヶ月はかかる。しかし今回に関して言えばそれはもう少し短縮できるかもしれない。俺が知らない(馴染みのない)単語にはある傾向があるからだ。端的に言えば、興味のない分野に関して知っている単語の量が、興味のある分野のそれに比べて段違いに少ないということだ。だから、そこに焦点を当てて語彙量を増やせば、もちろん語彙力は増強されるし、さらにそういう興味のない分野の文章が飛躍的に読みやすくなるだろう。TOEFLの点数を効率よく伸ばすには、これが一番いいように思える。

 そんな訳で俺は明日、とりあえず分野別に学習できる単語集を買いに行こうと思う。一冊を完璧に。単語の意味はもちろん、それを使った例文まできちんと覚えよう。

仏教、知能、差異、他者、身体ー「人工知能のための哲学塾atゲンロンカフェ」からー

 昨日(2月8日(金))、ゲンロンカフェ主催のイベント「人工知能のための哲学塾atゲンロンカフェ」に行ってきた。今回はそれについてつらつらと所感を述べる。

 三宅さんは、今の人工知能は極めて機能主義的であり、存在論的な人工知能のあり方ということはこれまでほとんど注目されてこなかったと仰っていた。要は、世界と自分は無意識の根元においては同一のものであるということが人工知能研究においては無視されてきたのである。彼が、東洋思想(仏教など)が今人工知能研究に必要になっていると語るのはこのためである。仏教ではこの無意識の根元、すなわち知能の根元にある真理を阿頼耶識と呼ぶ。その実体は空である。「色即是空 空即是色」というわけだ。人工知能が機能として何ができるかということだけでなく、その根元における世界と自己との一致点を見ないことには、いずれその技術開発に限界が来ることは容易に予想されよう。

 さてここで東さんが後半の対談で再三にわたって仰っていた「共通の身体」について触れておこうと思う。

 自己は「語る」ことによって、「語る」自己と「自己が語るのを聞く」自己との差異を露出させる。後者の自己にとって、前者の自己はもはや外部化されているのである。いわばそれは一種の「他者」なのである。その差を統合しようとして再び差異を露わにする。その繰り返しの中で私たちは自己同一性という感覚を得る。もちろんそれが錯覚にすぎないことは明らかであるのだが。

 つまり自分自身とそうした「他者」(外部化された自己の痕跡を含む)との差が、私たち自身の自己が同定される必要条件なのである。この「他者」が他人と共有されるとき、各々がそれとの一致を試みることによってそこに社会性が生まれる。この共有される「他者」が明確な輪郭をもって現れることで、そこに「共通の身体」が発現するのではなかろうか。

 TwitterFacebookといったSNS空間では、通常のコミュニケーションにおいて時間とともに自然消失するはずの「他者」(「共通の身体」)が半永久的にアーカイブされてしまう。それは本来ありえないほどの力でもって私たちの自己のあり方に影響を与える。おそらくはそれに関わる人の多さと、その膨大な時間的堆積によって。それはユーザーから見れば、世界そのものにも匹敵するようなものと化している。その中で活動するとき、ユーザーはまさにその「世界」と自己との一致を見る。

 だが、ここでいう「世界と自己との一致」と、徳の高い僧が至る「妙」の境地とは明らかに異なると言わねばなるまい。「妙」の境地において自己と一致する所の「世界」は、文字通り無限大の世界(宇宙)そのものである。それは確かに普遍であるだろう。ところがSNSでの「世界」は明らかに普遍ではない。それは一種の島宇宙と言うべきである。ネット空間そのものは物理的に普遍に近似するものであっても、ユーザーの前に現前するそれは極めて特殊的である。それは自分の友達や趣味に関連した情報しかその人に提供しない。そのような「世界」と自己との一致に陶酔する人は、自己の正当性を「世界」の普遍性に代弁させようとしているにすぎない。もちろんそれは詭弁である。

 しかし情報空間に保存されるデータが膨大になればなるほど、こうした感覚が錯覚にすぎないことが気づかれにくくなる。これは非常に危険なことであろう。SNSにおけるカリスマが、実質的に世界を牛耳ることが容易にできてしまうのだから。東さんが、政治的な要請によって、SNSの過去が随時抹消されるようになると仰っていたのはこの辺りのことが関係しているのではないかと思われた。

 とりとめのない話になってしまった。まだわかっていないことだらけだし、この文章もきっと矛盾で彩られているに違いない。それでも1つだけ正しいと思えることがある。それはこのイベントが私にとって有意義であったということだ。

フランス語学習について

 俺はフランス語が好きだ。しかしまだそれを実用できる段階にはない。今俺に足らないのは圧倒的に語彙量だと思う。ではいかにしてそれを増強するか?

 塾で英語を教えていて思うことだが、語彙力ほど増強に時間のかかる能力は、語学学習に必要なものの中では他にないのである。しかし、一度レベルアップするとそれは確固たる地盤となって自分の語学力を支えてくれる。

 つまり、だ。最も効率よく語彙力を伸ばす方法があるとすれば、それは「毎日その勉強をする」ということに尽きるのだろう。少しづつでいい。前にさえ進んでいれば、いつか自分の語彙力の伸びを実感できる日が必ず来る。石の上にも三年。桃栗三年柿八年。どれだけ時間がかかっても挑み続ける所存である。

或阿呆の一日ー春休みー

 春休みに入ってもうすぐ一週間が経つ。あいも変わらず語学を中心にした勉強生活を展開している。

 と言っても課題も何もないので、流石にそれだけでは味気ない。そこで色々やってみることにした。

 まず朝、朝食もそこそこに机に向かってまずやることは写経。但し一日一行。憶えるまで綺麗な字で般若心経を写す。ちなみに今日は「三世諸仏  依般若波羅蜜多故」のくだりだった。多分あと十日くらいで完コピ(?)できる。全部憶えたら一度毛筆で全文書いてみたい。

 その後で英語のルーティーンワークに入る。初めにアプリでTOEFL用英単語20個確認。そしてBBCニュースを一本聴く。ここまでがウォームアップ。それが終わると適当にyoutubeからTOEFLspeaking用の動画を拾ってきてそれをやってみる。45秒ないし60秒で話し終えたらその内容をパソコンに打ち込む。自分で喋った文章を自分の目で見て、何らかの瑕疵がないか確認する。もし問題があれば適宜訂正し、修正した原稿を読み返す。まあせいぜい100〜120語くらいだからそれほど手間でもない。その後はリスニング対策。TOEFL対策用の紙の教材を使ってオーバーラッピングとシャドーイング。慣れてる文章なら一回きりだが、初めてやるやつなら四回くらいは繰り返す。ここまでのことをやった上で、もし時間があればリーディング。まあこれは二、三日やらなくてもどうってことない。第一日常的にBBCニュース見てるから、読むスピードはそんなに急には落ちない。正確性を保つために週に二回くらいやっている。ライティングも然り。毎日書いてるは書いてるから、速さを維持するために週に二、三回やる。英語に関してはこんなもん。

 朝の10時半くらいから昼飯食ってやるのがフランス語。こっちはまだまだだ。(英語ももちろんまだまだだが、それ以上に)とりあえずフランス語検定2級対策単語集60個チェックする。この単語帳、今まだ二周目なので結構難しく感じることもある。来年度中に準一級取りたいので頑張る。この辺で昼飯を食い、適度な疲れとともにDELF対策教材に向かう。このDELF(英語で言う所のTOEFLみたいなもん)、マイナーすぎて対策本が全然ない。多分日本で発売されているのは3、4種類くらいしかないんじゃないか?しかもめっちゃムズイ。DELFA2と同じクラスであるはずのフランス語検定準二級と比べても、圧倒的にDELFの方が難しい。下手をすると二級よりDELFA2の方が難しいくらいかもしれない。リスニングのスピード、要求される単語量、どれを取っても桁違いだ。だがだからこそいい勉強になると思っている。これに慣れておけばフランス語検定は相当楽に感じるだろう。わからない単語はマイ単語集にメモっておきつつ、わからないなりに問題を解く。慣れてくると案外解ける。たとえわからないにしても。1日二題。少しずつ頑張る。

 ここまでやって、最後に英語、フランス語それぞれのマイ単語集を使った単語学習。英語は1日30個。フランス語は1日40個。憶えると言うよりは確認する、といった感じだ。

 ここからは日によっても変わってくるが、選択肢としては

1、哲学書の精読

2、ラテン語の学習

3、古典文学に触れる

大体こんな感じか。1と2を中心に、適宜3を挟むって感じ。今読んでる哲学書は、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』。以前これに関する本(野矢茂樹による解説本)は読んだが、その時は概略くらいしか掴めなかった。今回はそれを踏まえて実際に『論考』を読み解いていく所存だ。ヴィトゲンシュタインに関しては、『論考』→『青色本』→『哲学探究』と読んでいって、それを踏まえて柄谷行人の『探究』シリーズを読むつもりだ。彼のコミュニケーション論から、現代のメディアの変遷が現代の知のあり方に与える影響を考えられないか調べるつもりでいる。

 それにしてもラテン語は難しい。フランス語を学び始めたときにもそう思ったが、はっきり言って次元が違う。ある本で「ラテン語をモノにするには少なくとも7〜8年かかる」と書かれていたのも分かる。変化の仕方が多い。男性・女性・中性で変化するのは当然として、フランス語と同様動詞がその主体によって6つに変化する。更に名詞も、6つの「格変化」(主格、呼格、属格、与格、奪格、対格)をする。これに付随する形で形容詞も6つに変化する。そしてその変化の仕方も各品詞で共通している訳ではない。たとえば名詞の場合、その格変化の仕方に応じて「第一変化名詞」から「第五変化名詞」まで分類されている。従って形容詞も5種類に分岐する。ちなみに動詞は一般には3種類に分類されるが、よく用いられるものほど不規則変化する。

 時制を直説法現在に固定してもこれだけ複雑な様相を呈する訳だが、この固定を外す、つまり過去形や未来形について考え始めるといよいよ紙面に収まらなくなるのでこの辺にしておく。とにかく、これに関しては「読める」レベルに達するまでに数年はかかると見るべきだろう。

 古典文学については前回の記事に触れた通りである。昨日と一昨日で川端康成の『雪国』を読み、今はシェイクスピアの『リア王』を読んでいる。文豪たちの息遣いを文章を通して感じるときの安らぎは何物にも代え難い。尤も、私なぞに彼らの本質が理解できるとは全く思わないのだが。

 あと日常的にしていることといえばランニングか。これはただ健康管理のためにしているに過ぎない。栄養のあるものを食べたり規則正しい生活をしたりするのと何ら変わりない。腹筋運動と腕立て伏せを軽くやった後、午後5時頃に、25分ほど近所をジョギングする。木曜を除く週六日これをやる。それだけで意外と簡単に腹筋は割れる(気がする)。

 そんなこんなで一日を過ごし夜10時半頃床に就く。適度な疲れとともに自然に眠る。朝は5時半から6時半、自然に起きることができるタイミングで起きる。そうしてまた、1日が始まっていく。