ケルト神話の主体形成ー『ケルト神話と中世騎士物語』からー

色々書きたいことはある。時間があるうちに書いておこう。

今回は田中仁彦氏(1995)の『ケルト神話と中世騎士物語』(中公新書)という本を読んで感じたことについて。

ケルト神話では、「他界」というモチーフが頻繁に用いられる。彼岸と言い換えてもいいが、この「他界」は<此岸/彼岸>の対立構造に埋め込まれるようなものではないということに注意しなければならない。それはむしろ、私たちの日常のすぐ隣にある(地続きな)世界であると捉えなければならない。私たちの日常と対比するならば、<意識/無意識>という図式の方が好ましい。それらは互いに相手を補完し合う。

さて、ケルト神話は、主として旅の物語である。そしてこの旅によって、主人公たちが成熟した主体となっていく様子を描いていると田中は解説している。

簡単にその過程を追っておこう。まず人(以下、単に「人」という場合それは男性を指すと考えてほしい。ケルト神話で主体を成熟させていくのは悉く男性なのである。しかしこれは決して男性中心主義である訳ではない。むしろ女性が優位に立っていて、それを超越しようとする意思が彼らの主体を育むのである。)は母親の「胎内」に育まれる。つまり精神的には母親と一体して幼児期から児童期を過ごす。その後、そこから離れる意思の下で、自らの「理性」を育もうとする。いわゆる反抗期から青年期がこれにあたる。そしてその後、異性と肉体的にだけでなく精神的にも結ばれることで、晴れて一人前の「主体(=大人)」になる。「胎内」は「本能」や「無意識」と言ってもいい。ともかくそれらから離れ、鋭く対立する「意識」や「理性」を、人は青年期に形成していく。しかしそれだけではまだ足りない。その対立項は、本来相補的でなくてはならないからである。つまり、その二者を止揚することができなくては人間として完成したとは言えないのである。その契機となるのが異性との精神的な結びつきである。かつて自らを育んだ場所へ、愛と確固たる意思を胸に還っていくのである。かつてその場所は自分が無批判に受け入れられ、しかしそれゆえに主体としての自分が介在する余地のない場所であった。しかし「意識」や「理性」を十分に涵養した今は違う。1人の「主体」として、かつて超越的存在者だった異性(あるいは自分にとっての「無意識」)と関わりあうことができるのである。

こうした過程を、ケルト神話では以下のように表現している。

まず、主人公は母親と暮らしていた森を離れ旅に出る。その中で心惹かれる女性に出会う。しかし彼女は彼を拒絶する。彼はなんとか彼女に愛されるに足る男になろうと努力する。幾多の試練を乗り越え、2人がめでたく結ばれることで物語は結する。この「森」が「胎内」、「無意識」を象徴していることは言うまでもない。原初的な母親との結びつきが解けたのち、新たな結合がそこに生まれる。運命や血統ではなく、自分自身の意思によって。

こうした旅による主体形成の物語は、村上春樹の小説を彷彿とさせる。『1Q84』(2009–2010、新潮社)の青豆と天吾の「結びつき」は、まさに彼らが主体として成長したことを示すものとして描かれている。<声>によって伝承されたであろうケルト神話は、まだこんなところにも息づいている。