キリスト教と仏教ー最近の読書録からー

久しぶりにブログを動かす。"serial experiments lain"の分析が空中分解してしまったので、初心に戻って何事か書く。

まずはここ1ヶ月で読んだ本(作品名のみ)を列挙する。

ケルト神話と中世騎士物語』、『文化としての近代科学』『アカデメイア』、『聖書の読み方』、『「ニーベルンゲンの歌」を読む』、『仏典の読み方』、『方丈記』、『平家物語』、『徒然草』、『枕草子』、『コーランの世界観』、『李白詩集』、『杜甫詩集』

それまでが割と現代的な内容を扱った本(レーベルで言えば講談社現代新書のようなヤツ)に傾倒していたのとは全く対照的である。一応これには理由がある。

伊藤計劃の「三部作」の中で唯一未読だった『屍者の帝国』を10月に読み、彼(実際にこれの大部分を著したのは円城塔であるわけだが)が情報社会の発展のその先に見据えた景色は、<声>という最も原初的なメディアに媒介されて開かれているのではないかと推測した。

では、<声>が媒介するもので現代にも伝わっているものは何か?身近なところで言えば「神話」がそれにあたるのではないだろうか。そんな考えの下でなんとなくケルト神話に関する本を手に取ってみると、これが存外に面白かった。そしてこう思った。「やはり人間、数千年やそこらではそんなに変化してないんじゃないか?」と。

ここから古典に対する興味が急に湧いてきた。洋の東西を問わず、面白そうなものは何でも読んだ。個人的には特にキリスト教や仏教に関する宗教論に惹かれた。こういうことを言うと絶対に眉をひそめる人が現れるのだが、私が惹かれたのは宗教論であって宗教ではないということに注意していただきたい。

キリスト教と仏教を最も単純に対比すると、前者の世界観は静的であるのに対して後者のそれは動的であるということが言える。前者は世界の創造主である「神」をその世界の中心に措定するが、後者はそもそも「中心」を持たない。多くの仏教徒たちが尊敬する釈尊は「世界に遍在する」。(私はここで『lain』を連想したが、そんなことはどうでもいい)ここでは少しだけ、私が感じた両者の共通点・相違点について通観してみようと思う。もちろんそれぞれ宗派によって考え方は違うので、ここに書くことが正しいという保証は全くできない。

まずキリスト教について。彼らの「神」とは何であるのか。平たく言えばそれは「他者」に他ならないのではないだろうか。

人間の知的領域は常に有限である。どこまで行っても、その体系に回収されない外部(=「他者」)が存在する。それは私たちにとって常に脅威となるが、同時に私たちを存在せしめる母胎でもある。

この二律背反性-私たちにとって「脅威」でありかつ「母胎」であるということ-は、そのままキリスト教における「神」の二重性格性と符合する。「神」は私たちを「赦す」。たとえ私たちがどんな罪を背負おうとも。たとえ私たちが「神」を裏切るとしても。その超法規的な愛こそが「奇跡」であり、また「奇跡」こそが「神」の条件である。しかし彼はただ私たちに愛を注ぐのではない。彼は私たちに必ず何らかの苦難を強いる。愛はその先にしかない。しかしそれがわかっているからこそ、私たちは日々の困難に立ち向かっていくことができる。「神」は私たちに苦難を強いるが、同時にそれを以って私たちを「赦す」。これはまさに、上で取り上げた「外部」(=「他者」)の性格そのものである。

私がこの記事で特に言いたいのは、いわゆる「神」は陳腐なおとぎ話の登場人物などではなく、人間が知的である以上必ず存在してしまう「他者」なのであるということである。宗教は人の論理的思考を妨げる枷なのではなく、むしろその論理世界の存立条件そのものなのである。現代においてどんなに科学技術が発展しようとも、それは「神」が軽んじられる理由には決してならないことを私たちはよく自覚しなければならない。

次に仏教について。仏教の根幹を成す思想はやはり「諸行無常」である。あらゆるものは千変万化し、実体を持つものなど何一つ存在しない。ゆえに、「私」などというものも錯覚にすぎない。(この錯覚を生む心の働きを仏教では「末那識」と呼ぶ。)キリスト教は、人の知的領域外部の他者である「神」をまず措定したが、仏教ではそもそも「人」の実体性を認めない。よって「人」と「神」との境界はなく、そもそもそんなものは仮象であると看破する。

では「仏」とは何か?これは難しい問いである。というのも先に述べたようにこの世のあらゆるものに仏は宿るからである。

仏を考えるには、まずその性格を考えなければならない。仏に煩悩はない。あらゆる執着から逃れ、輪廻から解脱した人を「仏」と呼ぶ。つまりそれは「自然に」なるということである。永遠の生の流転と一体化した人。それこそが「仏」である。

しかしそれは同時にいわゆる「人間」ではなくなるということでもある。自然と一体化するということは、あらゆる迷いがなくなるということである。それはつまり意識がなくなるということである。意識的に行動する余地がなくなる、と言った方がいいかもしれない。キリスト教の「神」と同様、「仏」と「人間」との間には深い谷があるようである。

さてまとめよう。キリスト教の「神」も、仏教の「仏」も、突き詰めればこの世界そのものを指すという点では一致する。ただ、「神」が意志的、形而上的な「他者」であったのに対して、「仏」は極めて行動的、形而下的な「自然」そのものである。私たちの存在の前提条件として、ふさわしいのはどちらか。形而上的な「他者」か、形而下的な「自然」か。

この対立が永遠に議論される運命にあることは、昨今のAI研究における「強いAI」の立場と「弱いAI」の立場との対立を見れば容易に理解できよう。前者は、AIの知能は人間の脳の知能と厳密に一致するべきであると考えるのに対して、後者は、AIの知能はAIが人間と同じ行動を取ることができるようになった時点で完成したとみなすべきだと考える。この対立構造は、まるっきりキリスト教と仏教の世界観の対立構造と同じである。

やはり人間、数千年やそこらではそんなに変化してないようである。