読書の日々ー『三文オペラ』、『マクベス』、『青年』からー

 私は、基本的に本は古典に限ると思っている。もちろん現代に書かれたものが悪いと言いたいのではない。ただ、時代の淘汰を生き抜いてきた書物には一定以上の価値があると認めて差し支えないだろうと考えているだけのことである。大学の図書館に岩波文庫が多くあることには感謝しなくてはなるまい。

 最近読んだところだとブレヒトの『三文オペラ』、シェイクスピアの『マクベス』、森鷗外の『青年』といったところか。

 『三文オペラ』は、貴志祐介の『悪の教典』で引用されていたのでほんの興味から読んでみたが、あのブラックユーモアには舌を巻いた。ここまで猥雑で悲惨な状況をあれだけある意味で「快活に」笑い飛ばせるのは、正に作者ブレヒトの圧倒的な筆力ゆえであろう。

 『マクベス』に関しては言うまでもあるまい。これまで読んだことがなかったことを恥じるべきかもしれないほどである。文字通り「魔が差した」マクベスの悲劇が、詩情豊かに綴られている。なんとなく「魔女」の表現のところで、私は村上春樹の『海辺のカフカ』に登場する「カラスと呼ばれる少年」を思い出した。

 『青年』は、夏目漱石の『三四郎』を意識して鷗外が著した作品と言われている。これはもう彼(鷗外)の教養の奥深さに感銘を受けるばかりである。フランスやドイツの古典教養だけでなく(それらに関して彼が一線級の人物であることは言うまでもない)彼は日本や中国の古典教養にも明るいことが、作品の中の心理・情景描写から窺い知れる。この時代の文豪たちの知性はいつも私の蒙を啓いてくれる。

 ところで私は別に文学の専門家になりたいわけでもなければ、小説家になりたいわけでもない。ではなぜ日常的に小説に触れているのであろうか。

 まず一点挙げられるとすれば「落ち着くから」であろう。精密に編まれた芸術を前にすると日常の煩わしさから一時的に逃避することができる。だから私は読む本を選ぶ。性に合わないものは読まない。

 それに加えて言うべきことがあるとすれば、「可能性の土壌を豊かにしたいから」であろうか。この「可能性」とは、何かある対象を前にした時の自分の思考の可能性のことである。それはこれまでの自分の経験の蓄積に依存する。ならばその経験をより多様にしておくことは、自分の思考を先鋭にするために必要なことなのではないだろうか。

 もちろん私は自分が読書に時間を食っていることに正当な理由が欲しくてこんなことを言っているのかも知れない。しかしそれでも構わない。本を読むことで、日々愉しく生きられる。それを非難する理由はなかろう。少なくとも私には思いつかない。 

哲学と数学ー2018年度京大理系数学第4問からー

個別指導塾の講師をしていることは前の記事で書いたが、最近は高校生を担当することが多い。そこで高校数学(数1)を教える機会があった。その子が持ってきた問題は、大学受験レベルでこそないものの、決して低レベルではなく、非常に数学らしい数学で面白かった。

その晩何となく数学がやりたくなり、本棚の奥に眠っていた「大学への数学」を掘り出してきて去年の旧帝大理系の数学の過去問に手を伸ばしてみた。

いやはや面白かった。特に京大理系の第4番はよかった。複素数と確率とを組み合わせた問題だった。概要を簡単に示しておく。

複素数平面上に動点Pがある。問いのリード文に示されたルールに則ると、その点Pは原点を中心とする単位円周上にある、点(1)を頂点の1つとする正三角形の3頂点のうちのいずれかにあり、順次その3点を移動することがわかる。そこで、そのルールに則った操作をn回繰り返したとき、動点Pが点(1)(以下、点Aとする)にある確率を求める。

ちなみにここでの「ルール」とは以下のような感じである。

まず1回目の操作の手順は以下の通りである。

表と裏がそれぞれ出る確率が等しい一枚のコインがある。このコインを一回投げる。もし表が出れば、点Pを、上記の正三角形の頂点のうち、実部が負で虚部が正である頂点(以下、点Bとする)に置く。裏が出れば点Pを点Aに置く。

2回目以降の手順は以下の通りである。なお、上記の正三角形の頂点のうち実部と虚部がともに負である頂点を以下点Cとする。

1回目と同様にコインを一回投げ、表が出れば、動点PがAにある場合Bに、Bにある場合Cに、Cにある場合Aにそれぞれ移動する。裏が出れば、動点PがAにある場合そのままAに、Bにある場合Cに、Cにある場合Bにそれぞれ移動する。

さて、紙面の都合上複素数で表現されていた「ルール」を、できるだけ単純に表したが、こうするとただの確率漸化式の問題に帰着することがご理解いただけると思う。要するにこの問題にとって複素数はイントロのためだけに必要な端役なのである(尤も、この「ルール」の仕組みが幾何的に理解できなければそもそも解けないので、その点でこの問題を解くために複素数の知識は重要になるとも言える)。

ちなみにこの確率漸化式、見た目はいかついが、意外とすぐ解けることがわかると思う。慣れている人なら2分くらいで解答に辿り着くはずだ。然るべき方法で解答する生徒の手を煩わせるような真似をしないところはさすが京大と言うべきである。

ここまでの論理の流れを総括すると、

複素数で表現されたリード文の「ルール」をシンプルな平面幾何上の移動の手順として読み換える。

② その手順に従って、n回操作後に動点Pが点Aにある確率を求めるための確率漸化式を立てる。

③導出した確率漸化式を解き、解答となる確率を求める。

たったこれだけである。一見複雑そうに見える問題が、こうも単純な構造をしているとわかるとき、その構造の荘厳さを見るとき、私は数学の妙を感じる(私は数学に関しては素人なので大きな口は叩けないが)。

そしてこれは何となく哲学に関する長い論文を読み、理解するときの楽しみにも通じるものがあるような気がする。大体の哲学のテクストは見た目がいかつい。それは仕方がないことである。哲学は普遍性(超越性)を志向する学問である。そして普遍性(超越性)は形而上的である。目の前に現れてくれないものを考えるとき、それを語る言葉が親しみにくいものになるのは自然なことではないだろうか。

しかし、文章の構造を透視し、それだけを取り出してくると、案外シンプルであることが多いのである。というより、シンプルで瑕疵がないからこそそれは汎用できる(普遍的でありうる)のであるから、それはむしろ哲学の論文として必要な資質であると言える。それを見出すとき、私はついにその著者の知性の本懐と対面することができる。これほど緊張感に満ちた、それでいて知的に興奮するコミュニケーションが他にあるだろうか。勿論私も本気で彼(彼女)の知性と向き合う。哲学に限らず、本気と本気がぶつかるとき、それは当事者たち、そしてその観衆たち(スポーツの試合を想像してほしい)にとってかけがえのないものになる。

そんな「勝負」に、生を焦がしてみたいと思う私はロマンチスト過ぎるだろうか?

あ、僕「EGOIST」っていうバンドが好きです

僕は塾講師のアルバイトをしている。といっても個別指導塾なので、感覚としては家庭教師に近い。しかし家庭教師と決定的に違うのは、基本的に不特定の生徒さんを相手に授業するという点だ。今日授業する子がどんな子なのか、実際に会うまではわからない。

この緊張感はそんなに嫌いじゃない。十人十色とはよく言ったもので、なるほど世の中はこんなに個性豊かな子供たちで満ち溢れているのかと感心してしまう。その子はどんなことを考えながら問題と向き合っているのか。その子は今何がわからずに悩んでいるのか。そして、その子は何が分かればもう一歩先へ進めるのか。それぞれの答えを会話の中から引き出しつつ、彼らが自分の手でその壁を壊せるように助力する。もちろん上手くいくことばかりではないが、半刻前までは全く歯が立たなかった問題をスラスラと解いてみせてくれると、こちらまで「よっしゃ!」と思ってしまう。

こういう仕事も悪くはないのかもしれないが、今の僕には少々荷が重すぎる感がある。彼らのことを本当に理解し、共感してともに進むには、僕はいささか自己中心的すぎる。確かにこの仕事に楽しみを覚える瞬間もあるが、数学を解いている際中に天啓を得る瞬間に比べてしまえばちゃちいものだと思えてしまう。結局僕は僕のためにしか動けない。他人を自分の論理の中でしか理解できない。だから僕は、(少なくとも今の僕は)絶対に医者や教師になってはいけない人間だ。

図らずも、そんな僕のことを好いてくれる友人が周りにたくさんいることには感謝せねばなるまい。僕はそんな大層な人間ではない。決してない。誰かのために行動しようなどということは、自分の不利益になってもいいからと他人のために尽くすことは、おそらく僕にはできない。僕が多くの人と違う点があるとすれば、その区別(自分にとっての損得を基準に行動すること)が極めて厳格であるというところだろう。だからサークルにも入らなかった。交友関係を幅広いものにすることと、自分の勉強を頑張ることとを比較したときに、どちらが自分にとって有益かは僕にとっては自明だったからだ。(もちろん興味のあるサークルがなかったというのもあるんだが)

そして僕は学部でトップの成績をとり、高額の給付型奨学金を受け取った。しかし全く達成感がない。そもそもそんなに頑張った訳でもない。大学の授業に関しては、ただやるべきことをやっていたに過ぎない。大学は学問の場だ。学問を修める気がないならとっとと就職した方がいい。少なくとも「受験が終わったら遊べる」と考えるのは絶対に間違っている。大学入試は、あくまで大学での勉強で最低限必要な基礎を問うものに過ぎない。だからそれに通過したからといって安心していい訳では決してない。むしろその基礎を実のあるものにすべくより一層勉強すべきだ。実際僕は今間違いなく去年(受験生のとき)より勉強している。僕の今の成績がトップなのは僕が優秀になったからというより、周囲が勉強しなくなったからだと言うべきだ。そしてそんな環境でトップになっても虚しいだけだ。だからもうそんなことにはこだわらないことにする。

じゃあ何をするのか。勉強は好きだ。圧倒的にこれ以上なく自分の生を豊かにしてくれるから。しかしこのままでは駄目だ。このままだと僕は一生自分の考えの外にたどり着けない。要するに僕は、他人を心から理解し共感できるようにならなければならない。クリスマスにディズニーに行って思い出を作るカップルのような、そんな彼らのような心根を範としなければならない。そんなことを漠然と考える日曜の夜。寒過ぎて足元のヒーターには無理をさせてしまう、そんな12月の夜。

仏教と神経科学ー『哲学のメタモルフォーゼ』からー

最近(というか、ここ2ヶ月以上もの間)、『哲学のメタモルフォーゼ』(河本英夫・稲垣諭 編著、晃洋書房、2018)という哲学書をじっくり紐解いている。今年発売されたばかりなので、ある程度の規模の書店ならばほぼ確実に置いてあると思う。非常に興味深い著作なので、是非手にとってペラペラ立ち読んでみて欲しい。内容がわからずとも、その色彩豊かな文体には思わず目を奪われてしまうだろう。

ここではそのⅢ章「経験の変貌」、7節「意識の行方」の内容を取り上げて所見を述べさせていただく。

意識とは、自動的に作動する無意識が何らかの原因のために止まったとき、その動作を調整する因子として表出する、言わば二次的存在である。要するにそれは自動的な「身体」の運動を補完するための器官に過ぎないのである。(ここでの「器官」という言い方は夭折の天才SF作家、故伊藤計劃氏に倣った)にも関わらず、日常生活の中でそれを実感することはほとんどない。むしろ確固たるこの「私」(=意識)が自分の行動を完璧に制御しているとさえ感じている。これは完全に転倒した論理である。尤も、「私」の意識が「他者」を育み、それが社会を成立させている以上、こうした実感は必要不可欠なものであると認めねばならないのかもしれないが。

さて、以前の記事でも触れたように、仏教思想においては、概ねこうした「私」の存在は仮象であると看破されている。これは、現代神経科学の観点からすれば全く正当な主張であろう。釈尊が2000年前にこうしたことに気づいていたとは俄には信じがたい話である。そしてこうした「私」という仮象を産む存在、つまり一般的な意味での「意識」を仏教では「末那識(まなしき)」と言い、その「末那識」を育む場所、つまりユングが言うところの「集団的無意識」のことを仏教では「阿頼耶識(あらやしき)」と言うのであった。(注:別にいわゆる「無意識」を「阿頼耶識」と言っても悪くはないが、あくまでその「無意識」はこの「私」にとっては外在であり、世界全体の流れそのものである、ということを強調するためにここではユングの言葉を借りた)

となると、上で述べたような意識の働きを考える上で仏教は非常に有益なのではないかと思えてくる。兎角仏教は神秘思想であると揶揄されがちであるが、そんなことはない。現代の脳科学がようやく最近発見したことを、約2000年前から見抜いていたのだから、そこらの科学よりはよほどリアリスティックであると言うべきである。騙されたと思って、まずは鈴木大拙の著作から読んでみてはいかがだろうか。

情緒と数学ー『はじめアルゴリズム』からー

このところ古典ばかり読んでいたので、ちょっと趣向を変えてマンガの話。

『はじめアルゴリズム』(三原和人、2017–、講談社、既刊5巻)という数学に関するマンガをご存知だろうか。数学に天武の才を持つ小学五年生関口ハジメが、同郷の出身である老数学者内田豊と出会い、その才を開花させていくというストーリーである。主人公ハジメの才を徐々に引き出していく数学者、内田のモデルは、往年の世界的数学者岡潔であるとされている。それがわかるシーンがあるので、引用しておく。

君は数学にとって重要なものが何かわかるか?(中略)情緒だよ

(『はじめアルゴリズム』1巻、p.66)

岡潔の数学の中心には「心」があるというのは有名な話である。このシーンは間違いなくそれを意識していると言えよう。

確かに数学は見た目で敬遠されがちである。しかし数学でしか表現できない大切なものは、間違いなく私たちの心の中にある。『はじめアルゴリズム』は、そうした情緒としての数学、暖かさを持った数学を私たちに示してくれる。どうぞ肩の力を抜いて、ソファに座って暖かいコーヒーでも飲みながら読んでいただきたい作品である。

 

 

李白と数学ー『李白詩選』からー

李白は、中国盛唐時代の詩人であり、言わずと知れた「詩仙」である。私ももちろん高校の漢文の授業で幾度となく彼の詩には触れてきたが、この度ふと『李白詩選』(松浦友久編訳、1997、岩波文庫)を手にとって読んでみることにした。特に理由はなかった。ただこれまで中国の古典文学に触れる機会は比較的少なかったな、と感じたからに過ぎない。

ところが、である。彼の詩たるや、

豈美しからんや!

是非皆さんにも読んでいただきたいので、少しだけ引用したい。(p.15、カッコ内は訳者による現代語訳)

王昭君

昭君払玉鞍(王昭君は、白玉の鞍を軽く手で払い、)

上馬啼紅頰(馬の背にのって、あかい頰を涙でぬらす。)

今日漢宮人(今日までは、漢の後宮の人だったのに、)

明朝胡地妾(明日の朝には、胡の国の妾となるのだ。)

五言絶句の詩である。王昭君の名は、高校で世界史を履修していた人ならば一度は耳にしたことがあるだろう。前漢元帝の時代の美女で、外交戦略として匈奴に降嫁した女性である。彼女の出発の日の心情が、詩情豊かに綴られている。「玉」と「紅頰」の色の対比が、彼女の面持ちを鮮やかに映し出している。「今日漢宮人」であった王昭君が、「明朝胡地妾」になる。悲運の美女の心象が、美しい情景とともに表出している。僅か20字の詩だが、その荘厳さに思わず跪きたくなるほどである。

このシンプルな美しさは、どこか数学にも通づるところがあるように思う。冗長な部分が何一つない。まさに自然のまま。これ以上でもこれ以下でもない。

そういえば、中国語の数字の数え方は、西洋語のそれに比べて単純で、それゆえ中国人の数学的能力は一般に西洋人よりも高いという傾向があると聞いたことがある。李白の詩を読めば、彼ら(少なくとも李白)の心が数学に通じているということにも納得できよう。

 

ケルト神話の主体形成ー『ケルト神話と中世騎士物語』からー

色々書きたいことはある。時間があるうちに書いておこう。

今回は田中仁彦氏(1995)の『ケルト神話と中世騎士物語』(中公新書)という本を読んで感じたことについて。

ケルト神話では、「他界」というモチーフが頻繁に用いられる。彼岸と言い換えてもいいが、この「他界」は<此岸/彼岸>の対立構造に埋め込まれるようなものではないということに注意しなければならない。それはむしろ、私たちの日常のすぐ隣にある(地続きな)世界であると捉えなければならない。私たちの日常と対比するならば、<意識/無意識>という図式の方が好ましい。それらは互いに相手を補完し合う。

さて、ケルト神話は、主として旅の物語である。そしてこの旅によって、主人公たちが成熟した主体となっていく様子を描いていると田中は解説している。

簡単にその過程を追っておこう。まず人(以下、単に「人」という場合それは男性を指すと考えてほしい。ケルト神話で主体を成熟させていくのは悉く男性なのである。しかしこれは決して男性中心主義である訳ではない。むしろ女性が優位に立っていて、それを超越しようとする意思が彼らの主体を育むのである。)は母親の「胎内」に育まれる。つまり精神的には母親と一体して幼児期から児童期を過ごす。その後、そこから離れる意思の下で、自らの「理性」を育もうとする。いわゆる反抗期から青年期がこれにあたる。そしてその後、異性と肉体的にだけでなく精神的にも結ばれることで、晴れて一人前の「主体(=大人)」になる。「胎内」は「本能」や「無意識」と言ってもいい。ともかくそれらから離れ、鋭く対立する「意識」や「理性」を、人は青年期に形成していく。しかしそれだけではまだ足りない。その対立項は、本来相補的でなくてはならないからである。つまり、その二者を止揚することができなくては人間として完成したとは言えないのである。その契機となるのが異性との精神的な結びつきである。かつて自らを育んだ場所へ、愛と確固たる意思を胸に還っていくのである。かつてその場所は自分が無批判に受け入れられ、しかしそれゆえに主体としての自分が介在する余地のない場所であった。しかし「意識」や「理性」を十分に涵養した今は違う。1人の「主体」として、かつて超越的存在者だった異性(あるいは自分にとっての「無意識」)と関わりあうことができるのである。

こうした過程を、ケルト神話では以下のように表現している。

まず、主人公は母親と暮らしていた森を離れ旅に出る。その中で心惹かれる女性に出会う。しかし彼女は彼を拒絶する。彼はなんとか彼女に愛されるに足る男になろうと努力する。幾多の試練を乗り越え、2人がめでたく結ばれることで物語は結する。この「森」が「胎内」、「無意識」を象徴していることは言うまでもない。原初的な母親との結びつきが解けたのち、新たな結合がそこに生まれる。運命や血統ではなく、自分自身の意思によって。

こうした旅による主体形成の物語は、村上春樹の小説を彷彿とさせる。『1Q84』(2009–2010、新潮社)の青豆と天吾の「結びつき」は、まさに彼らが主体として成長したことを示すものとして描かれている。<声>によって伝承されたであろうケルト神話は、まだこんなところにも息づいている。